軍艦島元島民ろうあ者

初 対 面







元島民ろうあ者
福 冨 砂 雄 さ 


軍艦島で生活されていた元島民のろうあ者です。長崎ろう学校卒業生の福冨砂雄さんです。これは福冨さんから昔の写真を見せてもらっている様子です。






写真を見せてもらいながらいろんな思い出話を聞かせてもらったのですが、その時間はなんと7時間!7時間ず〜っと話し続けたんです。本当にたくさんのお話しを聞かせてもらいました。


昭和30年代


現  在


        現在の軍艦島の写真。朽ち果てて廃墟になっています。






中学生時代

昔の写真で、福冨さんが桟橋のところに立っている写真。回りは護岸された桟橋付近。

2005年




福富さんが手摺りにもたれているところを撮った写真ですが、その向こうにあるのは端島小中学校です。こちらは今現在の廃墟になった端島小中学校の写真です。端島小中学校の横の建物の5階、そこ(写真上の実際の場所を指して)の手摺りのところで撮ったんですね。福冨さんは島内でずっと同じ所に居住していたのではなく、島内を3回引っ越したそうです。最初の所から別の部屋に引っ越して、また別の棟に引っ越したとのこと。







福 冨 砂 雄  一 家

兄弟は健聴者とろうあ者、合わせて5人。一番上が車椅子使用の身体障害者、二番目がろうあ者、三番目が知的障害者、四番目が福富さんでろうあ者、そして五番目の末っ子もろうあ者です。兄弟5人の内3人がろうあ者であり、5人全員が障害者ということになります。何故、そうなったのか?

昔は親族同士が当たり前だと思われているけど・・・

従兄弟同士・・近親者との結婚により障害者が生まれたのです。

 では、5300人の中に何人のろうあ者がいたんでしょうか?島には6人のろうあ者がいたそうです。5300分の6です。福冨さんの兄弟3人の他は、炭坑で働いている方の子どもで年齢も様々だったようです。現在どうされているかは分かりません。

 福冨さん一家はこの島で長く生活していました。5歳の時に島に移って、23歳までの18年間、炭坑が閉山し島を退去するまで、この島で暮らしていたそうです。

 これは当時の家族写真です。ご本人、ご両親・・・炭坑夫をされていたお父さんは亡くなられましたが、お母さんは健在です。かなり歳をとられてますが、私はお会いできて本当に感動しました。

端島幼稚園

福冨さんが島に移ったのは5歳の時なので、まだ小学校に入る前、幼稚園の頃です。この島には幼稚園もあります。端島幼稚園です。幼稚園をイメージすると「地面にブランコや滑り台があって、そこで楽しく遊んでいたのかな、1階庭に幼稚園があったのかな」と想像するでしょ?普通はそうですよね。ところが、最上階にあるんですよ!一番上の屋上!そこに幼稚園があったんです。まだ5歳ですから、朝早くお母さんが幼稚園に連れて行きます。母親達は毎朝、子どもの手を引いて階段をぐるぐると上がって、屋上の幼稚園まで連れて行く。で、またぐるぐる階段を下りて部屋まで帰り、お迎えの時間になるとまた屋上まで上がって行き、子どもの手を引いて階段を降りて帰ってくる。送り迎えも大変だったんです。中庭はブランコや滑り台がある公園でしたが、幼稚園は屋上だったんですね。



島内にあったプールの写真





現在のプール跡(荒れ果てたプール跡の写真)



この写真は福冨さんが若い頃、体育祭のときに撮った写真です。後ろに写っているタイルで描かれた絵は見えるでしょうか?これはとても貴重なものです。生徒が自分たちで記念に製作したタイル絵なんです。

現在のタイル絵の写真。







この写真は、卒業後・・20歳くらいの頃でしょうか。彼は炭坑で働いていました。炭坑でろうあ者が働けるのか、ろうあ者には厳しいんじゃないか、と疑問に思うでしょ?彼は炭坑内での採掘作業ではなく、運搬作業をしていたんです。坑道は地底深くまで続いており、落盤しないように木材で坑道内を補強してあります。その木材等を運ぶ仕事をしていました。

 プロの炭坑夫の給与は、普通に町で働いている人の3倍あったそうです。凄いですよね!彼の給与も普通の人の給与と比べると1.5倍あったそうです。

でも、その後2年で炭坑は閉山し、島を退去しなければなりませんでした。止むを得ず従うしかありませんでした。



 これは仕事に行く途中で撮った写真だそうです(階段の下に立っている写真)。炭坑夫の格好で撮っておけば記念になって良かったのでしょうが、普通の服で撮った写真です。

 炭坑の仕事は危険な場所で汗水流して真っ黒になって行うので、終わった後はお風呂に入り、その汚れを落として着替えてから帰っていたそうです。

 

福富さんが若い頃に神社の石垣のところで写した写真




福富さんの結婚式の写真です。ご本人はまだ急がなくてもいい・・・と思っていたそうですが、炭坑が閉山するので島を退去して両親が名古屋に行くことになっているので「早めに結婚式を挙げなさい」と親から言われ、1974年記念の日に結婚したとのことです。覚えやすい結婚記念日です。









そして、退去してから35年の月日が流れました・・・。しかし、現在の島の様子は全くご存知ありませんでした。パソコンは得意ではない、本を読むのも苦手ということで、その後の島のことは全くご存じなかったんです。
2009年4月22日、軍艦島の一般公開が始まり、観光客が訪れるようになると知っても「どういうことなんだろう??」と思っていたそうです。私は一般公開が始まる頃、4月25日に福富さんのお宅を訪問しました。
その際に、彼個人のことと35年間の思いをお訊きしました。


【福富さん宅でのビデオ映像】

廃墟聾:

 

福富さんの紹介をしたいと思います。 軍艦島で生活していた元島民のろうあ者です。

漸くお会いすることができました。お会いできて本当に嬉しく思います。

貴重なお話しをたくさん聴くことができました。ご自分の経験談など、様々なこと

を話していただきました。炭坑の仕事についても、健聴者並には無理だった、ろう

あ者ではやはり限度があったということを話していただきました。

こういうろうあ者が島で暮らしていたことは全国的にも珍しく、誇れることです。

このアルバム(表紙「長崎県高島町端島」)に以前の写真が綺麗に整理されています。35年前の写真をいろいろ見せていただきました。35年が経ち、廃墟になって朽ち果てた軍艦島に、どのような思いを抱いてらっしゃるでしょうか?



福富:

ショックで・・・(感極まって言葉にできず、俯いて涙を堪えている様子)

 廃墟聾:

35年前・・・昭和49年4月20日に閉山されて島を去り、それから現在までの35年間、そして現在の軍艦島の状況、福富さんはどんなお気持ちなのか・・・。私は様々な写真を撮り、情報を集め、それらを福富さんお見せしようと持ってきました。これらの写真や情報を見てどのように思われたのか、私も心が痛みます。福富さんの心の痛み、悲しみが伝わってきます・・・。私は実際に軍艦島に上陸し、廃墟となった様子を見ました。私も同じように35年の月日で廃墟となったことに衝撃を受けています。ろうあ者の方が軍艦島でどのように暮らしていたのか、今回、初めて聴くことができ、本当にお会いできて良かったと思います。


 

福富:

 

若い頃は多くの友人がいました。友だちをつくり易いところだったんです。しかし、今はそうではありません。若いときはたくさんの友人がいて、いろんな人に出会って・・・本当に幸せでしたが、みんな離散してしまいました。今は散り散りになって・・・そういうことを思い出すと涙が出てきます。
会いたいけれど、どこに住んでいるのか・・全く分かりません。そうですね、そういう気持ち・・・本当にそうですね。私も悲しく思います。もし、できるならば・・・私は軍艦島で生きて年老いて、そのままそこで生涯を過ごしていただろうと思いますが、途中で閉山になってしまい・・・とても残念です。私は最高に良い島だったと思っています。

廃墟聾:

私も最高に良い島だったと思っています。軍艦島が世界遺産になるまで頑張って活動していきたいと思います。

福富さんといろいろなお話しをしました。彼のお兄さんとお母さんはまだご健在で、お母さんは85歳になられます。私が写したビデオや写真をお母さんにお見せしましたが、それを見て、ショックを受け悲しんでらっしゃいます。様々なことがあった35年という月日・・・、その35年後の廃墟を見て衝撃を受けたという気持ち。その気持ちが私のほうにも痛いほど伝わってきました。福冨さんの家族皆さんは「貴方に会えて嬉しかった」とお礼を言ってくれましたが・・・。長崎ろう学校の卒業生の方に、島で暮らしていた福富さんが存在であることを教えてもらい、一緒にやってきました。そのおかげでお話しすることができました。

 




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